総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

越山

越山、揮毫を頼まれるたびにその雅号を好んで用いた政治家がかつて存在した。

当たり前のことではあるが、彼の本名の威勢に比して雅号(越山)の知名度の低いことは否めない。

 

越山・田中角栄


いわく「コンピューター付きブルドーザー」「目白の闇将軍」…まさに昭和の政治史に残る剛腕宰相に相応しい呼び名ばかりが目立つ。

 

しかし、最初に(今でもであるが)角栄の「越山」という雅号を目にした時からなんともいえない格別の想いを抱いている。(後にこの雅号にちなむとされる後援会「越山会」まで立ち上げているところをみると余程気に入っていたのだろう。)

 

「越山」というのは角栄の創作ではない。


彼を去ること数百年。角栄と故郷を同じくした戦国史にその名を燦然と輝かす名将・上杉謙信にちなむものである。

 

字義の通り、「越山」とは山を越える、その行為を指す言葉である。

しかし、かつてコシノクニと言われた北陸の人々をして山を越えるというのは並々ならぬものであった。


北陸は今なお毎年の豪雪によって冬季の交通が遮断される。
その積もる雪の峻烈なことは私のような南関東に育った人間にはちょっと想像もつかない。

まして戦国期を生きたコシノクニの人々はそびえたつ山の彼方にある関東を一体、どんな風に思っていたのか。それも想像もつかないことである、が。

ここに、北陸の人であり、かつ、関東に異常なほどの熱意を注いだ謙信という人物がいる。

彼は度々、父祖よりの拠点である越後を電発して、長駆(実にまったくの長駆)関東に出兵した。
先に度々、と書いた。少し表現が足りなかったと後悔している。

 

それほどに彼はまるで憑かれたような意欲で関東を侵した。

その意欲の源泉がなんであったかのか、しかし全くの衝動的行為ではない証拠に彼のもとには時として呼称11万という大軍が関八州より馳せ参じた。

 

「関東幕注文」という文書が上杉家に代々伝えられ残存している。
成立時期は不明ながら、そこには謙信越山の折にその幕下に集った関東の大小名・国人の名が列記されていて実に興味深い。

 

謙信の関東での「敵」は小田原に堅牢な城塞をめぐらした後北条氏であった。

北条氏は当初関東における「よそ者」であり秩序の破壊者であった。

家祖・伊勢新九郎の伊豆入国より、後北条氏は飽くなき抗争を関東の旧勢力と展開し、徐々にしかし確実、に関八州をその手に収めようとしていたし事実新しい秩序ともなりつつあった。

時代の変遷はいつもゆるやかである。


後世より見れば、社会が激変したように見えても実際の体感としては非常にゆるゆると古いものは崩れていったであろう。

 

関東の各地でも領主たちは「小田原体制下」に少しずつ組み込まれていった。


しかし、歴史はここに一奇態ともいうべき人物を生み落としていた、上杉謙信である。

彼は関東の旧体制として老朽化した「関東管領」という、関東全域の支配組織の次官の役職に、にわかに就任するのである。

謙信は越後に軸足を置きながら、自身が就いた役職の責務を果たすために関東へ出兵した。
もちろん本音をいえば、関東管領の権威のもと公然と関東に領土を拡大する目的があったろう。

 

じつに越後から300キロの道程を踏破し、小田原に11万の兵馬を引きずって攻めよせたが、天下の堅城と名高い小田原城は抜けなかった。

長期の対陣は謙信軍に参陣していた、関東の武将たちの足並みをも乱し、謙信は志半ばで越後へ去った。

 

それからまた北条の拡大運動が再開される。

 

一世を風靡した上杉軍の関東における版図も、謙信の死後は上野の一部を残すのみとなりそこもまた奪われた。

 

謙信になびき、北条と干戈を交えた武門は続々と、北条の属国となっていった。

「越山」の夢は消えたのである。

 

話しを昭和の永田町へ移そう。
昭和の「越山」の雄図はどうであったろうか。

 

角栄もまた謙信のごとく一世を風靡した。

 

政治家、官僚、財界人はこぞってその幕下に加わった。
山を越えずとも済むよう、何本ものトンネルと道を北陸に通した。
毎日毎日、数多の陳情客に囲まれる姿は、まさに将軍の威厳であったろう。

 

しかし彼もまた敗れた。

 

その晩年は離反者にも見舞われ支配力と影響力は著しく低下した。

病気に倒れた後は、権勢を誇った越山会事務所も閉鎖された。

 

山は閉ざされたのである。

 

旧秩序の守護者たらんと欲した謙信。
新秩序の創設者たらんと欲した角栄

 

時代も立場も異なるが、

山を越えることは大変な覚悟と代償を払わねばならぬものらしい。

漂泊の王

安西、という人が新卒のころの同期入社組にいた。
初対面での不躾を承知で「もしかして千葉の南の方の出身?」と聞いてみたのをよく覚えている。

「え?そうだけど…?」
本人は驚いてはいたがなんのことはない。
里見氏に滅ぼされた安房の豪族に同じ名前があったのを記憶していただけである。

あの村上春樹の著書の表紙などを手掛けていた、安西水丸という素晴らしいイラストレーターもルーツを南房に持つという。

安房の里見氏という豪族が、戦国時代に南房(千葉の南部)で小覇王の感をなしていた。
安房里見氏の祖は漂着者であり、落人であったという。

房総の神話では里見氏が安房に漂着するよりも遥か前に、安房に渡来した部族があった。
阿波忌部氏と呼ばれた彼らは土着の民や、その信仰の上に征服者として君臨した。

(「忌部氏」というのは古代の朝廷で祭祀をつかさどった人々であり、天の岩戸の神話にも登場する天太玉命という神の子孫であるという。)

安房第一の神社である「安房神社」は今でも忌部の神を祀っている。

余談であるが、安房神社というのは結構な神社で、社殿こそ大きくはないが、隣接する「野鳥の森」という自然公園の存在とも相まり。
静謐にして清潔、神道かくあれかし、という風格を携えている。

そもそも、古伝によれば「安房」という地名自体も、「阿波」忌部氏から来ているとされるが本当かどうか。

房総半島というのは誠に不思議な半島であり、そういった意味では漂流者によって歴史が紡がれた面もなくはない。

どうやら黒潮という豊かな流れに乗る豊富な魚群を追って、漁民の往来が古来から盛んだったらしい。(漁民の主役は主に紀州の人々だった形跡が濃い。)

その証拠になるかは分からないが、勝浦、白浜、布良、花園など紀州の地名と符合する土地が房総には不思議な程に多い。

また漁法においても「地引網」という勇壮な漁法が近世に紀州からもたらされ、現存している。

さらには平安時代中期に定められた延喜式(法令のようなもの)における六つの流刑地のひとつに安房は指定されていた。
自然、流刑者がもたらす都の文物は安房の文化を潤したであろう。

まことに半島にとって渡来の民は恵みの民であった。


里見氏の伝説に話しを戻したい。
鎌倉幕府を滅亡させた将の一人に新田義貞河内源氏)という人がいた。
その義貞と祖を同じくする庶流に、里見氏はいたという。

新田の鎌倉攻めにも参戦していたというのが本当ならばその歴史は古い。

その末孫にあたる人物が安房里見氏の祖になった義実だったと伝説は語る。

彼は戦に敗れ、流れ流れて房総半島にたどり着いた。
時の房総半島、安房地方は、四つの豪族が相争う地であって最も優勢であったのは安西氏であった。

劣勢であった他の勢力からに奉戴される形で里見義実は決起した。

安西氏は、忌部の後裔を名乗っていたというから里見氏の絡んだ紛争は、土着の王家の安西と、新参者である里見の侵略戦争の向きがないでもない。

(最も安西氏は三浦氏の庶流であるという言い伝えもあり、そうならば安房の地で繰り広げられた源平合戦ということになる。)

他の伝説では、落人であった里見を、安西氏が客将として遇した。
里見氏はやがて勢力を増して、庇護者であった安西氏をついには斃したというものもある。

どちらが本当であるにせよ、漂流者であった里見氏が安房玉座に座ったというのは事実であっただろう。

征服者里見氏は栄え、争い、また栄え、数代の歴史を安房の地に刻んだ。

最盛期は安房を越え、上総を席巻し、下総の一部にまでその影響力を誇った。

(千葉の南端から、佐倉市あたりまでの認識でよいだろう。)

しかし、後に追放同然で安房の地を追われ、最後の里見家当主は遠く山陰の地で死に、武家としての里見氏はその歴史に幕をおろした。

里見氏が居城とした、館山城はその名のごとく小高い丘の上にある。

天守閣跡に立つと、海に囲まれた安房の美しい景色がよく見え、図らずもここにやってきて、また図らずも去らねばならなかった一族に想いを馳せたりも出来る。

若ちゃん痛風日記【ペイン!ダディ!ペイン!】

痛風」になった。
地獄の苦しみ。

でも、この苦しみは初めてじゃない。
前にも経験したものだ。

そのたびに「もう生活習慣を改めます、神様…なのでどうか…じーざすくらいす」と眠れぬ夜に、
天井に向かって手を合わせた。

なんだか…どこかで聞き覚えのあるセリフ。

二日酔いで便器を抱えながら「神様、もうお酒なんて飲みません…なのでど…(以下略)」なんて若い頃、よくやってたっけな。

そのあとも、普通に飲んでたよな。
つまり人は中々、変われないってことなんだな。

どれ、ひとつ今後の自分への戒めのために、ブログでも残しておこうか。

どんな人が辿りつくのかな?
できれば、同じ病気に苦しむ人の慰めにもなったらいいな。

突然だけど、痛風患者の取扱いは要注意だ。
本人がいくら「へへへ、痛風になっちゃってさ…へへへ」なんて
江戸時代の小悪党みたいな卑屈な笑みを浮かべても絶対に
「えーwwwまじかよwwwだっさwww」なんて言ってはいけない

その後、いくら相手が「だよね、へへへ、参っちゃうよね」なんて言ったとしてもダメ。相手はその憎しみを決して忘れず、あなたを昼夜つけまわし、
家の床下には五寸釘打った藁人形を埋め、サタンと契約だってしかねない。

…冗談。(半分くらいは)

何が言いたいかというと、
痛風人と痛風人の間には、マリアナ海溝より深い溝が横たわっているわけだ。
(その水圧がかかるから、患部があんなに痛むんだな♪)

「なんか酒好きのおじさんがなる、足が腫れるやつ?」と、思ってはおられませんか?

違うんだ!!!!

なんか、若くてもなるんだ!!

「痛そーwww」

…じゃあ、ねぇんだ!!!!

くっ…あっ…くぁwせdrftgyふじこlp…あだだだだだ

という声とシャレにならない謎の痛みの波状攻撃に襲われるんだ。

だから、痛風患者を見つけたら、そっと肩を抱いて「つらかったね」と頭を撫でであげて欲しい。

なんの話しだ?(みんなのセリフだろ)
次回は、私の痛風遍歴を書こうと思う。

ど素人、和歌を読む その3

「ふふ…変わったお歌ですこと」
「そうか?どこが変だ?」

窓の外で、小鳥が朝の訪れをせわしげに告げている。

衣擦れの音は、閨の睦言の代弁者。
そこかしこに散った衣たちは、逢瀬の残り火。

衾にくるまった男女がそこにいた。

「なんだか…野暮ったいというか、ねぇ?」
男の髪を指で遊びつつ、女はけだるそうに歌を口の中で呟いていた。

「やれやれ、この歌に込められた私の想う心が分からんとは」

恋の歌だ。
しかも、なんとも未練のこもった。

「そう…山鳥…私達のことね」

男と女は、別々の人生を生きていた。
唯一同じ宿命があるとすれば、その人生を共に歩めぬこと。

「あなたにも、しだり尾があればいいのに…そしたら、私掴んで離さないわ」

「面白いことを言う人だ」

ふとかすめた宵闇の重さや寂しさを振り払うように、また男は女を抱き伏せた。

「やだ…もう朝よ…?」

「許してくれ、どうせ今夜は独りで寝るんだ…」

深すぎる寂寞の中で、男はきっと
つがいを失った雄鳥のように泣くのだろう。

 

 

あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々しき夜をひとりかも寝む

柿本人麻呂

 

歌意

山鳥の長く垂れ下がった尾羽みたいに、

長い長い夜を俺はひとりで寝るんだろうかなぁ」

ど素人、和歌を読む その2

「まぁ!…陛下ご覧ください…。」
「どうしたの…おやまぁ…。」

侍女の指さす彼方。
真っ白の衣が、新緑のきらめく香具山に幾旒もたなびいていた。

香具山は古来、夏の訪れとともに衣を干すとされる。

神事や公務に追われて、
私の知らないうちに季節は夏に移っていたのだ。

諸事煩雑なことを人は厭うけれど、私には丁度いいくらいだ。
仕事に追われていて、思い出さずにいる方がいいものが多すぎるから。

「見事なほどに、白いわね。」

初夏の青空に優雅に遊ぶ白衣たちが、なぜか忌々しい。

大和の神のあてつけのように感じられてならない。

『その黒き心で、お前はそこに座してよいのか?』と。

そうかもしれない。
私はあまり人に褒められた人生を送ってきた自信はない。
けれど…。

「陛下がましますおかげで、神々の御社も安んじてあのように神事を。」
「まことまことに。」
少し気が沈んだのを見て取ったのか、侍女たちが代わるがわる私を褒めそやす。

「あら、世辞を言っても、何も出ないわよ。」

私は神に物申したい。
あなた方は何もしてくれなかった。
あの時も、あの時も…。
だから、私は自分の力でここまで来るしかなかった。

神にけなされても平気だし、次女たちの世辞も要らない。

『ご安心ください、じきに玉座には無垢なる者が座ります。』

なにせ、私の春は遠く過ぎた。
あちらに行って抱きしめて欲しい人が沢山いる。
その時は「ひめみこよ、ようやった」と褒めてくれるだろうか。
それとも「やりすぎだよ」と苦笑いするだろうか。

「この得も言われぬ景色、我が夫や子も…あちらで見ているだろうか。」

ああ、どうして、命を謳う緑の中で、私は一人ぽっちなのだろう。


春すぎて
夏来にけらし
白妙の衣干すてふ
天の香具山

持統天皇

ど素人、和歌を読む その1

「私の代わりに泣いてくれているのか」
ふと、我が袖を湿らせる夜露に語りかけた。

百姓たちが丹精込めて作った稲たちは一日でも早い収穫を哀訴するように実った稲穂を上下させている。

「…冷えるな」
収穫前の稲を盗人から守るために、百姓たちは田のそばに仮説の小屋を作り、こうして夜通し見張るのだ。
私は民草を労わるため、この見張りを買って出た。

朝廷の玉座よりも余程この粗雑な小屋の方が私には居心地が良かった。
孤独といえば、ここもあそこも変わりはしない。
いっそ一人でいる孤独の方がどれだけ気苦労がないかしれない。

しかしながら、自分の実りを奪われることを恐れて夜通し目を光らせるだなどという、いたましいこの所業が、つい己の立場と重なり鬱々としてしまう。

民草を労わる名君という自ら勝ち得た世の評価も、近ごろはかえって疎ましい。
そもそも心から私はそう在りたいと願っているのかどうかさえ、今となっては分からない。

「いっそ全て奪われれば楽なのかもしれないな」
口をついて出た独り言にすぐさま心の中のもう一人の自分が答える。
『お前が首を刎ねたあの者のようにか?』

そうだった。
私は奪った身だ。その私が奪われることを恐れてこうしてほったて小屋に身をかがめているのはむしろ天が与えた居場所なのかもしれない。

「もう少し私の代わりに泣いていてくれ」
私は濡れ続ける袖に語りかける。

夜はまだ深く、きっと盗人は来ない。


秋の田の
かりほのいほの
苫をあらみ
わが衣手は
露に濡れつつ

ダイエットブログ その1 (現状把握と目標設定)

こんにちは、若旦那です。

 

今回のブログからやっとダイエットブログとして始動です。

表題の通り、まずは現状の把握からしていきましょう。

 

2020年7月28日の朝のデータですね。

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体重:89.9㎏

体脂肪:24.7%

内臓脂肪レベル:11.0

BMI:28.4

 

…うん、なるほど

よく分かんないな!!!!(笑)

 

ということで、

30歳で178センチの男性の標準というものを調べてみました。

 

www.kumachu.gr.jp

 

この表によると、私の身長から導き出される、

標準体重は

69.7㎏

 

…20.2㎏もオーバーしてるやん。

 

どうりで…ねぇ奥さん?(謎)

 

そこで、肝心の目標設定ですが

 

一年後に75㎏を目指しましょう。

(そこは69.7㎏じゃないのか?(笑)なんてつっこまないでください、69.7㎏なんて体重低すぎて(主観)モチベーションが上がりません。)

 

今より14.9㎏マイナスを目指していきます。

月々で考えると1.2㎏を落とす計算ですね。

 

さて次にこの目標設定に関して、「心理対比」というテクニックを使っていきます。

 

①これはまず目標が達成された状況をイメージしてどんなポジティブなことがあるかを思いつくままに書き出すことからはじめます。

②その後は、そのワクワクの羅列の中から、

「これが一番、ワクワクする!」というものを一つ選んでください。

 

③次に…ここからが肝心です。

その目標を達成する際に何が一番、障害となって立ちふさがるのか?

そして、目標を達成できなかった場合に起こるネガティブなことを書きだします。

 

④いよいよ…

その中から、これが最も一番危険だ!!というものをピックアップしてください。

それをしっかり具体的にイメージしたら、その問題への対処法まで細かくイメージしきってください。

 

これで何が変わるかと言うと、

目標達成の可能性が飛躍的に高まるとのことでした。

 

何故なら短期思考(快楽的で楽観的)が追い求める成功イメージをステップの1.2が補完し、

長期的な思考(冷静で悲観的)をもってそれを実現まで具体的に形にするステップ3.4が担うことで達成の現実化に相乗効果を生み出すからです。

 

この手法はダイエットだけじゃなく、その他の目標設定にも使えるそうですよ。

なんだか、意識の高い話しですね(笑)

 

少し本腰を入れて「心理対比」を使って、

目標達成までのイメージと計画を練っていきましょう。

 

(つづく)