総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

フィッツジェラルド 「リッチボーイ」

主人公のどこまでも自分本位な姿がいたたまれない。

 

誰のことも愛したこともなく、愛の何たるかも知らない。

叔母の不倫を解決した際にそれが端的に現れている。
「心弱き者の迷い」を容認することが彼にはできない。

彼が愛したのは、自分の家柄であった。


そしてそれは、フィッツジェラルを受け入れなかった「階層」の人々と同じである。

恐らくフィッツジェラルドは、大学・ニューヨーク時代に出会った「富裕層の青年」から抱いた「冷たさ」「傲慢さ」を。
そして、それが徐々にアメリカの時代の流れに取り残される様を描きたかったのだろう。


富裕層というものは、その存在を支える「捧げる人々」なくしては成立できない。
そしてそれがあまりにも当たり前であるので、それを有難いとも思わない。
主人公にとってはそれが「愛」であり「信頼」「親密」さであった。

 

彼が若い夫婦の問題を解決することも道楽である。
それが本能的に分かるから「友人たち」は去っていくのだ。

 

彼は常に受け取る側であり、捧げたことはなかった。
自分を愛してくれた2人への仕打ちにそれが表れている。

 

前者にせよ、後者にせよ。
彼は常に彼女たちを分かったふりをしていただけで
彼女たちの苦しみに寄り添おうとはしない。

 

他者は常に、彼と対等な場所には立つこともない。

自ら与えるものでなければ「嫌いにならない」以外の好意を得ることはできない。

 

変化しなければ、「若さ」「富」それらのあらゆる資産は結局は空費される。
そこに捧げられる若い女性の時間を食いつぶしながら。

 

それはフィッツジェラルドのニューヨークへの憧れと絶望の姿にも見える。

 

滅びゆく時代を背負った一人の哀れなる男の人生を、フィッツジェラルドはその流麗な筆致で描いていく。

 

以下、特に気に入った文を記す。

―きらめくサファイアにようなワース湖(ところどころに錨を下したハウスボートが目ざわりだが)と、長くのびた巨大なトルコ石のような大西洋の間に挟まれて、パーム・ビーチがふくよかにゆったりと広がっている。―

 

―娘の赤いベレー帽は鋼鉄のような緑色の海を背景に、ぽつんと明るく際立っていた。―

峠(下)備忘編

スピードは金。

 

兵馬の精強無くして一般の正義無く、独立なく、自尊なし

 

人はその長ずるところによって身を過つもの。

長ずるところを用いられないと、鬱積する。

そうなると何とかしてその長ずるところを用いようとして現実を歪んだ解釈をしてしまう。

長じるところは一旦、脇に置いて冷ややかに見るべし。

 

(西洋が進歩したのは)

人と人が腹蔵なく語り合うという習慣を作れたがため。物事が速く進んだ。

 

一時点に限定すれば物事はにっちもさっちもいなかいように見えても

時が経過すれば世の中のことは徐々に変化して事態は全く変わってしまう。

どうにもならぬ時は、急がぬこと。

(それには)

知恵を働かせ、ときに駆けずり回って時を稼ぎ、時には亀のように息を殺し、踏まれても蹴られても怒らずに堪えて、無理な戦いでも受けて立って戦い抜く。

 

英雄がいなかれば紛糾した会議はまとまらない。

たとえ何人有識者がいてもまとまらない。

 

こちらに覚悟さえあれば、相手は出方に困るもの。

 

事実を伝える。意見は要らない。

客観的な材料だけで良い。

 

(倫理観が無くなった組織においては)

統率者が真っ先に陣頭を駆けて自身の理念のために死ぬもの。

その覚悟と気迫があらねば「群れ」はついてこない。

 

感情が昂ると思考力は低下するので、まずは冷静になるし、させる。

 

いかに威武在る者からも脅されても屈せず、いかに貧乏しても志を変えない。

 

人間は純粋な単純さを持たねば物事は成し難い。

議論は怒った方が負けである。怒ることは自己の敗勢を強引に覆そうと言う蛮行。

 

未来に対する最大の貢献の一つが「人を育てる」こと。

 

陽明学にとって、結果は重要ではなく、その行為自体が美しいかが重要。

 

(東北諸藩と西国諸藩比較)

階級の窮屈さ

外圧への感度

 

異常なる勇気を持つべし。犬死すべし。

 

徳義の無い軍は時代を担えない。

 

君子の第一義は護民官

 

(交渉事の要諦)

人数で威圧しない

親しい人物が単身馳せ来たり腹を割って話す

示威的に出て感情を逆なでしない

 

武士は主君のために存在している。

 

人柄は茫漠としていて物事に窮屈な先入主を持たず、直観によって事態の本質を察知する。敵への優しさ。

 

人間、成功不成功の計算の果てに行き詰まれば、そこには美しくあるべしという矜持が残るだけ。

 

山を例にたとえてみよ、木こりは山を見て山の樹を切り倒すことのみを思う。

しかし金持ちが山を見ればその山をどう金にするかを思うであろう。

視座を高く持つことである。

 

知恵は臆病さから産まれる。

 

人はどう生きれば美しいか、が武士道。

どう生きれば、公益にかなうかが儒教

この2つを持ったのが幕末人。

 

陽明学

自分の生命を一個の道具にするべし、と生きる。

そしていかに世を救うかだけが人生目標である。

峠(下)概要編

深川の藩邸から西洋商人スネルの船で江戸から脱出する継之助。

船内で後の日露戦争の英雄となる桑名藩士・立見尚文と談笑する継之助。

話しは「立場論」を中心に進んだ。

船は仙台で会津藩士を降ろし、函館で米を売り払い越後に帰り着く。

 

継之助が洋上にあるころすでに北陸には官軍が迫って来ていた。

越後の大方の諸藩は官軍に従い軍兵を差し出したという。

継之助は新潟で銅を売り軍資金を増やした。

 

長岡藩の上下が藩の運営方針を見つけられない中、満を持して継之助は長岡藩の家老上席になる。

 

戦雲が迫る中、継之助は

一藩武装中立の上での戦争終結を心中で掲げていた。

しかし事が微妙であるだけに表にはできず、曖昧さを指摘する自身の反対勢力との軋轢とも戦うことになってしまう。

 

いよいよ、戦雲が長岡を包む。

藩境まで迫った官軍に対して、継之助は小千谷にて「武装中立」の意向を伝えるが、折からの戦闘で気の荒くなった官軍代表がそれをはねのけた。

 

いよいよ、北越戦争の幕が切って落とされてしまったのである。

 

当初は優位に戦闘を進めた長岡藩であったが、

西部にて官軍の一大奇襲に遭い長岡城を陥落させられてしまう。

 

継之助自身も、ガトリング砲を操作しつつ撤退戦を戦っていた。

 

一旦は藩の山地にまで引き下がった継之助であったが、藩主父子を会津へ逃した後に徐々に戦線を押し上げ各地で官軍を破っていく。

 

しかし、皮肉にもこの戦闘で無辜の民草は多くの血を流すことになってしまった。

幼少から長岡の補国の臣を目指した継之助の目にはこの景色がどう映ったであろか。

 

さらに数度の戦闘を経て、長岡城付近の沼沢地からの奇襲によって長岡城の奪還に成功する。

これによって、官軍の抵抗は激化。

長岡城奪取を目論む官軍との戦闘中に継之助は左足の脛を縦断で砕かれ重傷を負う。

 

継之助が倒れたことによって長岡軍は瓦解。

長岡城も再度官軍の手に落ちた。

 

もはや長岡藩内での戦闘は不可能と見た彼らは、継之助を担架に乗せて会津へ落ち延びようとしていた。

その道中、八十里坂という峠の途中で彼は死んだ。

 

その死は、後に自分を荼毘にふすための薪と棺の

準備をする従僕を眺めながらという壮絶なものであった。

 

若くして幾度なく踏み越えた峠を、最後に彼は越えられなかった。

峠 中巻 【備忘編】

賢臣を登用し登用した以上は信用しきるのが名君の道

異例になると羨望から足を引かれる
細心の配慮をせよ

改革はゆっくりとやるのが上策だが
危急の時にあってはあっという間が良い

みずから出向き みずから調査する

私情も私心も、命も捨てているものが強い

俺の日々の目的は犬死ができる人間でいること
死を飾り、死を意義あるものにせんとする者は虚栄の徒であり
いざとなれば死なぬ。
人間は朝夕に犬死の覚悟をあらたにしつつ生きる意義のみを考える者が偉い。
今、夜道を行く
この風が身体を吹きぬけているようでなければ大事はできぬ。
肉体はどこにもない、からだには風が吹きとおっている。
一個の気だけが歩いているそれが俺さ。

政治をするものは身が寒い。
わが身をそういう場所に置かねば領民はとてもついてこない。

まず胆をうばってから道理を説き、ふたたび相手が首をもたげると別の一手でいま一度胆をうばい、最後に酒宴でうちとけさせる。

改革にはまずその理由を明快に開示する。

噂を流し周囲にその心の準備をさせる。

妻子を江戸に質にする参勤交代こそ幕府の諸侯統御の屋台骨であった。

古来天下の覇権は東海道を行きつ戻りつした。

理も非も無く武士としての美しさを守るものが武士である。

人間を動かすのは理屈ではなく、情念。

倫理道徳は時勢によって変わる。
あたらしい時代を拓くものは新しい倫理道徳を創めねばならない。

時と場合と相手に合う服装ができるこれを礼譲と言う。

その人と仲良くなりたければ、その人と同じものを食べる。

よき孔孟の徒とほど、老荘の世界への痛烈な憧憬者さ。

危急のおりに腰を据えるものこそ重宝なり。

危急を感じた時に、人はどんな手術や苦い薬も甘受する。
政治とは時機を見ること。

悲境でも揺らがぬ原則を立てる。

物事を行う時は単純明快が良く
八方誰のためにもよい政策などない。
何事かをするということは結局は何かに害を与える。
何事かに害を与える勇気のないものに善事は行えない。
知恵の道は寒く、むごい。

現場主義であれ。

情報収集力・通信力が勝負を分ける。

先の先の先を見越して今日の手を打つ。

苦しめて弱らせ、しかし殺さずに仲間にする。

人間にとって必要なのは視角を変えることであり
他人の視角をおもしろがること。

辛い姿を見せぬ美学。

命は使う時に使わねば意味がない。
命は今日のため、それが終われば明日のため。
命は事を行うための道具に過ぎない。

身を捨てる覚悟があるばかり。
勇猛心を持たずば火事場に飛び込むことはできず
そうならずば何事も無しえぬ。

忠誠心、利己心も無く、おのれをかばうところもない。
さらになお、命を張る。

政治は力、力は抑止力。
戦う戦わぬではなく、戦えば必ず勝つ体勢さえ整えれば
物事は好転するものである。

自分を賭けモノにする気概。

命令の統一、連携、報告が大事。

カラリとせよ。悪事も朗らかになせ。

人間の迷信のうちでもっとも害をなすのは年齢への信仰。

ことを行うには何よりもまず知ることが大事。

人民の権利を拡大して社会参加を促すことで
より重要な人材を国家に吸い上げうる。

金の実力が第一。
言論より金銭。

弱い、愛する自分と家族を守ろうという庶民で
この社会はなりたっている。

「訓練」とは人間の弱さを計算式に入れた反復行動。
恐れても体が記憶するようにする。

覚悟があってこそ、士。

覚悟があってこそ
政略、戦略があり、戦術がある。
根っこは覚悟である。

自分の覚悟を相手も持つと思うな
ことを為すに希望を待つな。

自ら決め、自ら赴き、自ら観て、自ら行え。

峠 中巻 【概要編】

峠(中)司馬遼太郎

故郷に帰った継之助は役人として新しく領地になった村の内紛を見事に収拾して出世を遂げる。
郡奉行と町奉行という藩行政の全ての頂点に座った彼は藩の改革に着手する。


・賄賂の禁止
汚職役人の免職
寄せ場と呼ばれる「更生施設」
・賭博の禁止
遊郭の営業停止
・蓄妾の禁止

 

諸改革は全て長岡藩の「富国強兵」であり、それは来るべき独立のための準備だった。

それらはまず噂を流す形で周囲に覚悟を持たせてから断行するという方法をとった。
また、実施に際しては継之助は陣頭に立ち手を砕いて自ら改革を行っていった。


諸改革の実施の中で慶応二年を迎える。
・第二次長州征伐
・将軍家茂の死去
慶喜の将軍就任
孝明天皇急死

というまさに激動の一年である。

継之助は町奉行・郡奉行を自ら退任して江戸に行き、藩の宝物を売りさばき現金化したうえで横浜の外国人から洋式火器を調達した。
スイス人ファブルランドの家に下宿しながら、謎の商人スネルとも知己になる。

 

長岡に呼び戻された継之助は「年寄役」という準家老を任じられた。
スネルの差配する船舶が新潟に来着して「抜け荷」により大量の兵器が長岡に運び込まれる。

 

大政奉還が行われ、天下の政情はさらに混迷する。


石高制の廃止を検討している継之助は反対派の武士に堀に投げ込まれる経験をする。


京阪の事情を検分するために継之助は藩主に随行する形で60人の藩士と共に京都へ入る。
在京中に鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍の弱きを痛感した継之助は江戸へ戻ることを決意する。

 

江戸に戻り、外国方の福地源一郎の引き合わせで福沢諭吉と知り合った河井は来る日本の新しい姿を垣間見るが同時に自身は長岡の宰相として終わることをいよいよ強く感じるのであった。

また、旗本の脆弱さを見て徳川の世の終わりをまざまざと思う。

 

さらには横浜にも行き、そこで西洋人の「擦れた」強さを感じる。
異民族割拠の歴史を経なかった日本の純粋さを想うのであった。

 

藩費捻出のために河井は金銀相場や米相場を利用しようとする。

経済が分かってこそ一国を率いることができると河井は思う。

国元でも江戸でも洋式訓練を藩士に課して河井は来るべき天下の騒乱に備えていた。

 

京都では「官軍」が組織されて東進を続けている。

会津藩の肝いりで行われた東国諸藩の結集会議にも参加するがそこで諸藩の日和見主義をまざまざと見た河井は改めて長岡藩のみの独立国家建設を目論むことになった。
会津藩の苦しい現在と惨憺たる未来は暗示される。)

 

牧野家の分家の藩指導者者たちと別離の宴席を設けた河井は、各指導者に「官軍につけ」と助言を送る。

 

江戸は消費者である武士を失い、経済的に困窮し始めていた。
各藩で蔵米を放出したため米価も下落していた。

 

旗本や諸藩の屋敷は引き払われた中、100人以上の武士を江戸に駐在させているのは長岡藩のみになった。
江戸に続く街道に官軍が満ちる。人々は河井と長岡侍達が無事に国元へ帰れるか心配するのだが河井は思う所ある様子である。

 

久方ぶりに吉原に行くとなじみの遊女が病気であることを知り、河井はそのまま吉原を去った。


もはや江戸に来ることはない、と語るかのごとく。

峠(上巻)読書備忘

峠(上)(司馬遼太郎

河井継之助越後長岡藩の100石格の家に生まれた。
幼き頃よりいつか藩の宰相になるを誓い、その行動力を磨くために幕府の公認学派の朱子学ではなく、知行合一陽明学を学び続けてきた。

彼は命の危険を冒しながら旅をした。
それは雪の峠を越えることとセットだった。
この越後の環境的制約。大きすぎる才気を持った男を縛り付ける冬の深い故郷。
しかし、河井は自らを故郷に縛り付けその立場から自らの能力を振るう時を待つ。
旅が彼の心胆を練り、心胆がまた彼の行動力に磨きをかけた。

江戸の古賀塾で学んだ彼は、吉原で女郎を買いつつも己の志を練るがためだけに読書を続ける。
江戸という都会に知らず憧れていたのかもしれない。

横浜でのロシア人水兵暗殺事件を機に、河井は横浜の外国人商人とも縁ができてゆく。
特にスイス人商人から聞いたスイスの話に河井は強く惹かれていく、一藩ことごとく武装すれば、スイスのような中立国になれはしまいか?と。

なじみの女郎も出来たころ、河井はまた旅の空にあった。
今度は終生の師となる岡山の山田方谷に師事するための旅である。

津で恩師と再会し、京都で貴族の女性と一夜の時を過ごす。
三十を過ぎた河井はまるで少年のような、どこか青い旅の毎日を過ごすが
京都はおりしも、安政の大獄の惨禍の中にあった。

岡山と長崎で学び、河井は江戸に戻る。
山田方谷から治世の術の勘所を吸収した河井であったが藩は彼を中々用いようとはしなかった。

遊学の費用も尽き、河井は長岡へ帰郷する。

藩主が京都所司代に任官するにあたって、その退任を進言したことで藩主の目に止まり河井は藩での出仕の道をスタートさせる。

牧野公の所司代退官の後はともに江戸に帰るが、今度は牧野公は老中に任官されてしまう。
老中退官をまたも進言した河井はその矢面に立つ形で役職を解かれ帰郷する。

妻と束の間の安閑とした日々を送る河井。

時代は池田屋事変、さらには禁門の変と風雲急を告げる。

河井の再登場を待ちつつ上巻を終える。

 

【心に残った部分】意訳

人間で最も大事なのは出処進退。
進むと出るは人の協力がいるが、処ると退くは自己の決断にかかる。

 

士は自らを縛る、その拘束こそが士を漢にする。

 

動じぬと決めたら、動じぬ。

 

魂が命を所有している。魂が主人であり生命体としての生命は道具である。

 

今の環境に安住すると人はモノを考えなくなる、寝床は冷えていた方が良い。

 

青臭い人間でなければ何事も無しえない。

 

集団狂乱の中で、一人だけ醒めることの危険性とそれでも醒める覚悟。

 

流行は人間の病のひとつ。

しかし英雄は流行を利用して世に出る存在を言う。

 

大切なことは「日ごろから飽くなく」考え続けること。

 

自負心は持ってよし、しかし利己心や野心は捨てるが肝要なり。

 

感情的な苦労と物の値段は別。物価に心を配ること。

経済の流れを読んでこそものの用に立つ人である。
越後屋の番頭が務まる武士こそ一国を切り盛りできる。」

士魂と商才は両輪である。

 

何事も目分量ができれば無用におびえなくなる。

怯えるものは武士にあらず。

 

置かれた立場で最善をつくすという覚悟。

 

世の中は食い気だけの若者と味のわかった大人の戦い。

 

勝敗を眼中に置かず、しかれども勝ちを制する。

 

知識に思想を交えてはじめて、未来が予見できる。

 

行動行動行動

 

不遇を憤るものは未熟である。

 

常住坐臥の緊張が、もしもの時の覚悟の醸成になる。

 

細心であれ、知恵ぶかくあれ。

 

この世は自分を表現する場である。

 

志を遂げるには、人に使われなくてはならない。
そのためには温良謙虚が処世の道。

 

人は原則を持たなけばならない。
そしてそれを実行する方法を模索すべし。

力があってはじめて自己の主張を世に問える。
実力を養うべし。

 

物事を行う場合、十人中十人が「良い」となったら断固として実行すべき。
失敗者は無数の夾雑物に意識と足をとられて行動できない。

 

トマト

足元に、トマトが転がっている。

私は日課の散歩道を歩いていた。
長い坂道の途中の…閑静な住宅街であるから、どこぞの家庭菜園から転がってきてしまったものらしい。

 

私はその誰の口にも供されない運命の熟れた野菜を横目に坂を上り続けた。

ついでに、こんなことでも無ければトマトのことなど考えないから散歩のつれづれに考えることにした。

 

トマトといえば、今やイタリア料理の代名詞と言っても過言ではない。

しかし、このどこか太陽の滴を思わせる野菜が、実は南アメリカ大陸からもたらされたものだというのはあまり知られていない。(最も知ったところでトマトの味が美味くなるわけもないのだが。)

 

1519年の南米に、エルナン・コルテスという征服者が上陸して、トマトの種を持ち帰ったたらしい。

全く、大航海時代という時代のヨーロッパ人ほど多人種を脅かし、かつその財貨をむしりとった民族もいなかった。

そんな人々にとっては「たかが乾燥に強い野菜」という特長しかなかったトマトなど、行き掛けの駄賃くらいの価値しかなかっただろう。

 

ジャガイモやトウモロコシといった現代の我々になじみ深い食物もこの時にヨーロッパ人が得た収穫物だった。

原住民からすると迷惑至極このうえない。
海の彼方からやってきた肌の白い征服者たちは、鉄で武装して物理的な危害を原住民に多量に与えた。
まさに災厄そのものだったように思う。

その災厄が今もそこかしこに傷跡になって残ってしまってもいる。

さらに迷惑なことに彼らは、新大陸の人々がいっさい耐性を持たないウィルスや病原菌までもたらした。

南米に君臨した、アステカとインカという文明も、どちらかと言えば、白人が撃ち込んだ鉛弾よりも、持ち込まれたさまざまな伝染病によってこの世から消滅した。

しかしながら、交流(それは必ずしも平和的なものを意味しないが)を経て、ヨーロッパにも新大陸独自の病は確実に「交換」された。

話しは飛ぶようだが、日本の戦国時代に結城秀康という人物がいた。
彼は徳川家康の次男として生を受けた。
まさに将来を嘱望された貴公子、のはずであった。

家康という人は多難の人で(でなくば天下などとりようもないが)長子であり、徳川軍閥を継ぐべき長子・信康を亡くしていた。
なればこそ、次男である結城秀康にその正統はまわるはずであったのだが、時代はそれを許してはくれなかった。

 

当時、家康には強大な対峙者としての豊臣秀吉がいた。
秀吉は家康に服属の証しとしての「人質」を求め、幼い秀康(幼名は於義伊)は大坂へ赴かざるを得なかった。

(最も、秀康よりも生母の格が上に当たる三男の秀忠が当初から嫡男であったという説もある。)

 

秀康は表面上は秀吉の養子となり、関東の名族「結城」家の名跡を継いだ。
徳川宗家との距離は限りなく遠くなったと言って、いい。

 

秀康は将としての器量に優れ、その威風は父、家康すらも一目置いていたという。

かの関ヶ原合戦の後は越前に68万石という大封を受けてもいる。
(あるいは家督を継げない秀康を慰撫するための破格の処遇であったかどうか。)

 

しかし、彼の寿命は短かった。34歳の若さでこの世を去った。

越前中納言と呼ばれ、ゆくゆく天下の仕置きに重きを為す予定の若者の命を奪った病。

 

それは、どうやら梅毒であったらしい。

 

梅毒は新大陸からヨーロッパ人が持ち帰ったものだったと言われている。


征服の財貨の副産物としてはいささか釣り合いの取れない駄賃であったかもしれない。

20世紀にペニシリン抗生物質)が発見されるまで、世界中で多数の人の命を奪った。

 

日本でこの病気を記録した最古の例が1512年。


コロンブスが初めて新大陸の地を踏んだのが1492年。


じつに20年という速さで、梅毒はユーラシア大陸を横断して極東の島国に到達した。

当時の移動交通手段を考えると驚異的な速度だろう。

 

故郷を遠く離れた場所に連れてこられ、そこで必死に根を張ろうとした人生の幕引きとしてあまりに、もの悲しく。

 

「こんなはずではなかった」と言う秀康の淡い恨みぶしを、原産地を遠く離れて極東で栽培され、熟れて朽ち行くトマトに重ねてみたりした。