総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

漂泊の王

安西、という人が新卒のころの同期入社組にいた。
初対面での不躾を承知で「もしかして千葉の南の方の出身?」と聞いてみたのをよく覚えている。

「え?そうだけど…?」
本人は驚いてはいたがなんのことはない。
里見氏に滅ぼされた安房の豪族に同じ名前があったのを記憶していただけである。

あの村上春樹の著書の表紙などを手掛けていた、安西水丸という素晴らしいイラストレーターもルーツを南房に持つという。

安房の里見氏という豪族が、戦国時代に南房(千葉の南部)で小覇王の感をなしていた。
安房里見氏の祖は漂着者であり、落人であったという。

房総の神話では里見氏が安房に漂着するよりも遥か前に、安房に渡来した部族があった。
阿波忌部氏と呼ばれた彼らは土着の民や、その信仰の上に征服者として君臨した。

(「忌部氏」というのは古代の朝廷で祭祀をつかさどった人々であり、天の岩戸の神話にも登場する天太玉命という神の子孫であるという。)

安房第一の神社である「安房神社」は今でも忌部の神を祀っている。

余談であるが、安房神社というのは結構な神社で、社殿こそ大きくはないが、隣接する「野鳥の森」という自然公園の存在とも相まり。
静謐にして清潔、神道かくあれかし、という風格を携えている。

そもそも、古伝によれば「安房」という地名自体も、「阿波」忌部氏から来ているとされるが本当かどうか。

房総半島というのは誠に不思議な半島であり、そういった意味では漂流者によって歴史が紡がれた面もなくはない。

どうやら黒潮という豊かな流れに乗る豊富な魚群を追って、漁民の往来が古来から盛んだったらしい。(漁民の主役は主に紀州の人々だった形跡が濃い。)

その証拠になるかは分からないが、勝浦、白浜、布良、花園など紀州の地名と符合する土地が房総には不思議な程に多い。

また漁法においても「地引網」という勇壮な漁法が近世に紀州からもたらされ、現存している。

さらには平安時代中期に定められた延喜式(法令のようなもの)における六つの流刑地のひとつに安房は指定されていた。
自然、流刑者がもたらす都の文物は安房の文化を潤したであろう。

まことに半島にとって渡来の民は恵みの民であった。


里見氏の伝説に話しを戻したい。
鎌倉幕府を滅亡させた将の一人に新田義貞河内源氏)という人がいた。
その義貞と祖を同じくする庶流に、里見氏はいたという。

新田の鎌倉攻めにも参戦していたというのが本当ならばその歴史は古い。

その末孫にあたる人物が安房里見氏の祖になった義実だったと伝説は語る。

彼は戦に敗れ、流れ流れて房総半島にたどり着いた。
時の房総半島、安房地方は、四つの豪族が相争う地であって最も優勢であったのは安西氏であった。

劣勢であった他の勢力からに奉戴される形で里見義実は決起した。

安西氏は、忌部の後裔を名乗っていたというから里見氏の絡んだ紛争は、土着の王家の安西と、新参者である里見の侵略戦争の向きがないでもない。

(最も安西氏は三浦氏の庶流であるという言い伝えもあり、そうならば安房の地で繰り広げられた源平合戦ということになる。)

他の伝説では、落人であった里見を、安西氏が客将として遇した。
里見氏はやがて勢力を増して、庇護者であった安西氏をついには斃したというものもある。

どちらが本当であるにせよ、漂流者であった里見氏が安房玉座に座ったというのは事実であっただろう。

征服者里見氏は栄え、争い、また栄え、数代の歴史を安房の地に刻んだ。

最盛期は安房を越え、上総を席巻し、下総の一部にまでその影響力を誇った。

(千葉の南端から、佐倉市あたりまでの認識でよいだろう。)

しかし、後に追放同然で安房の地を追われ、最後の里見家当主は遠く山陰の地で死に、武家としての里見氏はその歴史に幕をおろした。

里見氏が居城とした、館山城はその名のごとく小高い丘の上にある。

天守閣跡に立つと、海に囲まれた安房の美しい景色がよく見え、図らずもここにやってきて、また図らずも去らねばならなかった一族に想いを馳せたりも出来る。