総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

ダイエットブログ そのゼロのその2

どうも、若旦那です。

 

wakadan7.hatenablog.com

 

前回のブログからの続きになるのだが、

早速、かのメンタリストDAIGOさんが紹介していた

カルフォルニア式 6週間 人生改造プログラム(ババン!)」というものの、

要旨を以下にまとめてみた。

 

カルフォルニア式 6週間 人生改造プログラム

※4本の柱

(1)食事の改善
(2)睡眠の改善
(3)運動機能の改善
(4)メンタルの改善


(1)食事の改善
1.加工食品を摂取しない
2.飲酒は1日 グラス1杯に制限
3.炭水化物は運動の後に摂取する

(2)睡眠の改善
1.1日8時間睡眠の時間をとる(可能ならば10時間)

(3)運動機能の改善
1.朝1時間のストレッチ
2.週に3回激しい運動
3.週に3回緩やかな運動

(4)メンタルの改善
1.毎日1時間の瞑想
2.毎日1時間30分以上の勉強(健康やメンタルに関すること)
3.1日1回の他人に親切にする

※週1日は休息日とする

 

「むちゃくちゃきついな…(笑)」

詳しい話しは以下を読んでもらえるといいのだけれど

daigoblog.jp

 

要は、4本の柱を一気に手をつけることで相乗効果と習慣の定着の度合いが段違い、といったところだろうか。

 

はたまた「わかっちゃいるけどできないこと」を自らに課して習慣化する、

地獄のセルフブートキャンプといったところだろうか。

 

全部をこのまま行うのはさすがに難しいし、

私は完璧主義者なので

ひとつでもつまづくと嫌になって全部投げ出す可能性もある。(わがままなやつだ)

 

なのでアレンジを加えて実践してみることにする。

 

同時に今回のダイエットであるが、30年間の自分の人生の教訓を活かし

絶対に無理をせず、絶対に焦らない

 

これをモットーとしてやっていこうと思う。

 

今まで短期間での減量は行って、それなりの結果は出せてきたけれど

結局リバウンドをしていることかんがみて、

今回は長期的目標を意識してダイエットに励んでいくことができれば長い目で見て健康なライフスタイルも獲得できるんじゃないだろうか。

 

そんな大風呂敷を広げてみたりする。 

 

次回は現状把握と目標設定をしていきたい。

 

(つづく)

 

 

 

ダイエットブログ そのゼロ

太った。 めちゃくちゃに太った。

どれくらい太ったかといえば実に 1年間で16㎏太った。

73㎏→91㎏

これは事件である。

 

以前のブログに書いたけれど、私は痛風持ちである。

wakadan7.hatenablog.com

2年間と少しの引きこもりの間に90㎏オーバーした私の身体は

痛風という形で悲鳴を上げた。

 

歩けなかったので、食事制限だけで73㎏まで体重を落としてすっかり

痛風のことを忘れるくらいに健康?になったつもりだった。

 

痩せて活力も出たのか、良い御縁でこんな社会不適合者を拾ってくださる方も現れ。

2年ぶりに人界に降りて働くこともできるようになった。

 

結局、社会復帰してから

付き合いと、言い訳も増えて体重はどんどん戻ってしまった。

笑いごとではない。

 

不健康な生活はすなわち痛風発作の引き金にもなる…。

 

体重計の数字という逃げられない現実とにらめっこした私は、

7月1日、ジムの入会手続きをして、 トレーニングを開始した。

 

2週間ほど週6日ジムに通い、

1時間半のトレーニング(無酸素1時間+有酸素30分)をこなし続けた。

体重もおもしろいように減り始めた矢先、であった。

 

痛風発作の再来である。

具体的には、右足の足首と左足のアキレス腱が激しく痛んだ。

経験上、これは捻挫や骨折の類では、ない。

知らべてみると痛風は激しいトレーニングによっても引き起こされることが判明しているらしい。

 

痛風持ちは筋トレも思うさまできないのか…。」

と、改めて自分の不養生が招いた事態に鬱々としていた。

 

そんなわけでジムも休まざるを得ず、

終業後はYou Tubeの動画をダラダラと観るだけの生活を1週間続けてしまった。

 

その時である。

あのメンタリストDAIGOさんの動画に

カルフォルニア式 人生改造プログラム」というものが取り上げられていた。

 

私はその響きに一瞬息を飲んだ。

 

(つづく)

”勇気”の心理学

大変、遅ればせながら…

数年前から評判になっている、アドラー心理学「嫌われる勇気」を読んでいる。

 

まだ途中ではあるのだけれど、とてもタメになったので、

そこだけ取り急ぎ、備忘のために書き残しておきたい。

 

アドラーは、ユングフロイトと並ぶ心理学の「三大巨頭」の一人だと言われているそうだ。

 

ユングフロイトが日本でも知名度が高く、翻ってアドラーが昨今まで、

埋もれていた原因は、二点。

①難解さ

②厳しさ

によると思う。

 

ユングフロイトは個人の現状には、全て過去に根っこがあるとする「原因論」であり、この主張はとかく非常に分かりやすい。

原因→結果

という、いわゆる因果律が説かれているから理解には事欠かない。

ではアドラー心理学はどうかというと、人は今の自分の目的を果たすために現状を選びとっているのだという「目的論」の立場を明確にしている。

 

アドラーはトラウマの存在を否定するのである。

 

例えば、引きこもりの青年がいるとして…

原因論の立場に立てば、彼は幼少期にいじめに遭い、それに由って

外出して他者と触れ合うことを恐れているのだ、と分析するかもしれない。

 

しかし、アドラーの主張する目的論に立つと、彼は現状の

状態を維持するという目的のためにそうしている。と言うのである。

 

本人がどんなに「私は本当は外出したい、でも外に出るのが怖いのです」と叫んでも、

アドラーには通じない。

 

『彼は引きこもりたいから、引きこもっているのである』と、分析するだろう。

実に厳しい考え方である。

 

では、その状態から脱するには何が必要なのか?

そこには幸せになる勇気があれさえすればいい。

 人はすべからく、その人が自ら設定した主観的な「世界観」のフィルターを通して世界を捉えている。

 

たとえば、同じように幼少期に両親が離婚した、という経験をした二人の人間が居たとして、

A私はその経験があったから、努力して勉学に励み今の地位がある。

B私はその経験があったから、何も上手くゆかず鳴かず飛ばずだった。

 

このように、AとB二種類の人生観をそれぞれ持つことも往々にしてある。

つまり、客観的な事実をどう自分の人生の意味付けに使うかでしかない。

 

自分が努力のできない人間であると認めたくない人間は、きっと後者の意味付けをするだろう。

 

逆に言えば、自分がこうなりたいと固く決心できさえすれば、この世界はいかようにも意味づけができるし、

今、この瞬間から望む姿になることさえ可能かもしれない。

 

変わりたいという"勇気"さえ、あれば。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え ダイヤモンド社 https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819/ref=cm_sw_r_li_awdo_c_gsntEbT3NXTS5

徳、常に、術に勝る。

孟夏の太陽 (宮城谷 昌光 著)

を読んだ。

古代中国のとある国において、国家を主導した宰相の一族の

栄枯盛衰を描いた短編集である。

宮城谷先生の著作はどれもこれも、

己の人としての、在り方を問われるものだ。

 

ここのところ、題名にある言葉をよく考えている。

『徳(とく)常に、術(すべ)に勝る。』

徳とは、在り方。

術とは、やり方。

なんじゃないだろうか。

 

人の成長を樹にたとえるのであれば、

在り方は、根っこであり。

やり方は、実であったり、花であると思う。

 

実や花は、すぐ役に立つ、そして派手である。

しかし、実は食べればたちまち無くなり、花は枯れてゆく…。

一方、根っこは常に地中にあり、人目を引くことはない。

しかし、樹に実をつけさせるのも、花を咲かせるのも根あってのものであり、

風雨にあって、無事に樹を屹立させるのも根の為せる業に他ならない。

 

瞬間的に成果を出させるのは、やり方(方法)であることは間違いない。

だから、(何かここのところ上手くいってないなー…)という時は方法を振り返るといい。

 

しかし、長期的に持続する成果をもたらすのは、在り方(人間力)なんじゃないかと思う。

(ずっと頑張ってるのに、人に恵まれないなー…)と思う時は、在り方を点検するといい。

 

そして、悔しいことに在り方を育てるのには時間がめちゃくちゃにかかる。

最初はもちろんつまずきながらであるから、つい人は根を育てることをやめてしまう。

 

すぐに役に立つ方法を収集することで仮初の安心を得る。

自分が『どんな人間になりたいか』という目標を忘れてしまう。

 

その度に、自分は題名の言葉をつぶやき、自分自身を鼓舞する。

 

―徳は常に、術に勝る。―

 

時代の暴風に負けずに、立ち続ける大樹になる為に。

 

 

孟夏の太陽 (文春文庫) 文藝春秋 https://www.amazon.co.jp/dp/4167914301/ref=cm_sw_r_li_awdo_c_D15rEbX0SH6KW

ある寓話にことよせて

 

昔々あるところに

男がいた。

 

ある日、男が鏡をのぞくと、そこにうつる自分の姿がひどく汚れて見えた。

 

男は一生懸命にその鏡を磨いた。

 

しかし、いっこうに鏡にうつる自分の姿は美しくはならない。

汚いままだ。

 

腹をたてた男が鏡を割るために、外に出ようとすると。

男の息子が通りかかって言った。

 

『お父さん、変なの!顔がススで真っ黒だよー!』

 

男はふと我に帰った。

 

(汚れていたのは、俺自身だったのだ…)

 

男は身繕いを整えてもう一度、鏡の前に立つと、そこには美しい自分の姿があった。

 

…………

この寓話の教訓

この話しは先日会った、ある社長さんから伺った話しを

自分なりに着色して寓話風に仕上げました。

この話しにおける、鏡とは

毎日出会う『他者』です。

 

こんな事をいつも言っている人はいないでしょうか?

 

あいつは、怒りっぽくて嫌だ。

あいつは、暗くて話しづらい。

あいつは、真面目すぎてつまらない。

あいつは、人から貰うばかりでちっとも与えないやつだ。

あいつは、俺のことをちっとも理解してくれない。

 

…もしかしたら、

自分が怖い顔をしてるのかもしれない、自分が陰気な態度なのかも、

堅苦しいのは自分だったり、

人に貢献していないのは自分だったり、

人に理解してもらえるようなコミニケーションが自分ができていなかったりして…?

 

相手は自分の『鏡』であることは多い。

 

そして、鏡を磨くという行為は、相手をコントロールして『変えさせる』という事です。

 

全く自分のことを話さない人から、『もっと色々話してくれよー』と言われても…という経験はないでしょうか。

 

相手のせいにするのではなくて、

一度自分に『まだ何かできることはないか?』と立ち止まれる人が、他者と何かを作り出せる人なのかも、しれません。

 

そして、自分にとって誠実にアドバイスをくれる人達を、大切にすること。

 

相手を変えるのでなく

自分の在り方を見直すこと。

 

大事なことだと感じたので、自戒の意味を込めてここに残します。

 

ぶすいなるままに

まずは、この歌をお読みください。

 

「武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」

※武士(もののふ

 

これは源実朝が詠んだ歌だ。

シンプルな実景を詠みながら、詠み人のエネルギーが選び抜かれた語彙をもって具現化されて少ない情報量の中に雄渾なる歌意が内包されている。

正岡子規は『歌詠みに与ふる書』でこの歌を激賞していた。

どだい、私の歌は歌詠みに与ふる書からスタートしているので、私自身の歌の目指すところもここにある、と言って良かった。

良かった、のだ。

もうそれは過去形になりつつある。

 

ずっと『ひとり』で歌を詠んできた私にとってその歌人との出会いは峻烈とさえ言えた。

言葉は無限でありつつ、有限の可能性を持っている。(言葉を趣味とするものとして言葉の可能性を有限とすることは悲しくはあるが事実は事実。)

特に三十一文字という限られた短歌という場においては情報量の取捨選択は死活問題だ。

それをしない(本人はできないと言うけれど)、まっすぐにしない人に出逢ったのは初めてであり、(私自身が他者の歌にそこまで向き合ってこなかったのやもしれず)そこから自分自身の短歌への道が再び始まったような気もするのである。(本人に怒られるかもしれないけど知ったことじゃないのだ)

ちなみに、その人の歌を読むときはググりにググる(笑)

 

前置きが長くなった。

今日は、『その歌人』その人である、深水きいろ@kirofukami さんの連作の解説への感想、という

チャーハンの上に白メシ乗っけるみたいな無粋なことをしようと思う。

 

最後に深水さんの自作短歌解説のリンクを載せるので、ぜひそちらを読んで欲しい。(というか、読まないと分かりません(笑)各歌の解説に私が唸るだけというすごい記事です、これは)

そして、この記事自体は私の私見でしかない。

創作物は作者の手を離れた時に、半分以上は受け手のもの、というのが私の持論なのであるし、そうじゃなくっちゃ、生み出してシェアする喜びなんてそこにありゃしないのだ。

 

それでは、どうぞ

 

北行きのみちを一本西よりにたぶん貴方は半分おそい

 

(解説を読んで)

なっるほど…なるほど。

こんなに甘酸っぱい歌とは思わなんだ。

彼女の歌はどれもこれも、朝もやの中で凪いでいる澄んだ泉のイメージを私に与える。選ばれる語彙のチカラに比して想いは深く深く沈んだところで静かに鳴っていてそれに耳を傾けるのが楽しみなんだけどそんな歌。

 

・已むをえず流したけれど喉もとで泡はたまげてすべつたみたい

 

(解説を読んで)

これは、わかる。すっと入ってくる。

お酒って『飲むのは』すごく楽しい、でも『飲まされる』のは、つらい。

自分に嘘をつくと代償を払うことになるね。喉と泡がたまげたくらいでよかったよ。

 

・しづやかにとぢる扉の一瞬に春は誰かと笑つてゐたの

 

(解説を読んで)

静かに閉じたんだね。自分の手で静かに閉じたんだね。

夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来るよ。そしたらそっと静かに開けてね。

わかんない、いきなり来るかも。

 

・遠くから呼ばれたこゑにプリーツのないお喋りは終はらせました

 

(解説を読んで)

涙が止まりません、千葉駅のカフェのほかのお客さんごめんね。

涙腺がよわーくなっててごめんなさい。こんなに青春の一場面を美しい詩として補完できるってなんなのかな、才能なのかな。

さみしさ、やわらかさ、あきらめ、プリーツは激動のメタファーでした。プリーツなんてなくってもいいのにね、たくさんプリーツばっかりの人生をみんな生きてるね。

 

・永い日を乗るだけ乗せてタルトタタンになつた肩だけ掴んで帰る

 

(解説を読んで)

これ、俺、(もう俺でいいや)解説なしで一発合格?した歌だった。

タルトタタンの持つ重なり合う、ふりつもる『疲労』の言葉のチカラ、それでも甘くて優しいお菓子にしちゃった作者のおだやかな眼差し、好きな歌だ。

 

・たんたたんかろやかなツーステツプでたんたたんたんひとりたたん

 

(解説を読んで)

『ひとり』あー、ひとりで踊ることは美しい。照明も当たらないかもしれず、拍手もないかもしれない。

でもそれで良い。それが良い。決然とした決意を秘めながら、軽いオノマトペがそれを悲壮なものから遠ざける。

こころねの在り方、が透ける歌。

 

・三百角タイルのあたらしいばかり欠かさず踏んで平等だつて

 

(解説を読んで)

鳥肌の立つ解説だな。やべーな。

厳しい歌。戒めの歌。赦しの歌。

平等とは、なんでしょうか。それは俺にとっては空だ。

下に広がる命たちに、ひとしく雨を与えて、陽を与えて、でも何も言葉を持たない。

当たり前のことにそこには淘汰される命もあるけれど、それにも言葉をかけない。ただ、そそぐ、愛を。

作為をもたない。

この歌は作為まみれの人の頬を打つ、歌。

 

・くだりなら街もたんまりほころんで忘れちゃつてもカラカラ云ふね

 

(解説を読んで)

『感覚』だけ、を鮮明に覚えていることがある。細部は忘れてしまっても体験に紐付けされた、思い出が鳴っている、いつまでも、いつまでも。

からからと、胸のどこかで。

またいつか、いつでも感覚に会える。

おかえりなさい。

 

・庭のある街をわづかに早抜ける 母さん、わたしコロツケがいい

 

(解説を読んで)

何もいらなかったんです。俺も、なにもいらなかった。ただ笑ってて欲しかったんです、母親に。

比べることなんてひとっつもないのに、あるはずないのに。

ないものばっかり数えてたんです。

苦しかったろうな、俺も、母親も。

 


母さん、俺はハンバーグがいいな、にんじんのグラッセつけてね。

 

・濃藍のそらに満ちてゆく(あ、けふ)さよならプリンセス・セレニテイ

 

(解説を読んで)

この命を終えて、この命をそっと還す場所がある。

俺という意識はほどけても、還る場所があるのだな、と漠然と考えていたので、ああなるほどと、思った。

それを美しい言葉で彩れる彼女はやっぱり歌人なんでしょう。

憩える日は必ず来るみたいなので、その日まで、プリンセスが挨拶してくれるまで、こちらからは行けないのかな、とも思うけど。

片道切符をしっかり握りしめてるのは勇気の源になったりして、ね。

 

『引き汐のとき』解説

https://note.mu/kirofukami/n/n58a17513cecf
(追伸)

読んでくださった方、ありがとうございました。

本当に自分のためだけに文字を並べてしまいましたー!

 


歌と向き合うという貴重な時間を解説を書くということを通して、俺に与えてくれた、深水さんにも、ありがとうを。

 


そして、

全ての短歌愛好者に大好きを捧げます。

或る うたびとに よせて

新進気鋭の若手歌人(ということにしておきます)深水きいろさん。

彼女の生誕祭が先日行われ、そのアンサーソング(なんじゃそら)として、ふたつのネプリが彼女より配信されました。(【ねごと短歌】と【境界】)

今日は、このふたつの珠玉の歌の集まりから、私が好きなやつ(そらもう恣意的に)を選んで感想にもならない駄文を書き散らします。

 


第一部

【ねごと短歌】より

『今日』と『明日』のあわいに、そっと自分の心を振り返ってみる。今日の残響と明日への期待と不安を見つめて彼女は優しい歌をひとつ、こぼす。

 

 

 

・むりょくだと思いながらも動けずにきょうもおんなじふくを着ている

 


無力、をひらがなにする(単に眠たかったからかな?)のが虚脱感を表してて胸がぎゅっとする。今日も自分で選んだかどうか分からないお仕着せの服に袖を通して満員電車に揺られる。拗ねたくもなる。

 


・ぽかぽかとじっとりとの間のお天気に、纏われ泣いた、しんとねむるよ

 


季節、は何も語らない受け止めるのはいつも私自身。季節の変わり目は人に色々なもの想いの時をくれる。優しさに包まれて泣きはらした一日の終わりにわずかばかりの静寂がひとつ『しんと』。

 


・たくさんね、お話ししたからたくさんね、生きるを考えながらねむるね

 


自分の中にいる小さな小さな少女に語りかけるような歌だ。いろんなものを受け止めて、それを寝る前に愛しげに手のひらに広げるように見つめる歌。宝箱のような歌だ。

 


・黒いのがもうすぐそこに居るけれどきっとへいきよしあわせだもの

 


これは確実に眠くて仕方ない時に作った歌だ。(ひらがな多い)それだけに黒いの、が持つ寓意は雄弁じゃないだろうか。漠然とした不安?押し寄せる明日?自他の心の読めぬこと?…さまざまな邪気を、『しあわせ』という護符で封じ込める、闘いの歌。

 


・ありがとう、ありがとうって念じたよ、そしたらできた、今日の歌だよ

 


大体にして、彼女のほとんどの歌は感謝に貫かれている。日常のふとした横顔にも感謝のしっぽを捕まえられる鋭敏な心を持っているのだろう。ちょっと神がかりの巫女をも思わせる、特に好きな歌。

 


・死は好きだ、生のおわりの概念のある世界だから生きられるのだ

 


前の歌とこの歌を並べたのは、このふたつがすごく象徴的な意味を持つと感じたからだ。

感謝は『謙虚』さと分かちがたい。終わりを知っている、終わりから目を逸らさない。死という絶対の約束が結ばれているからこそ、日々は美しく、今日息を切らすほどに走ることが出来る。

 


すずらんをひとつずつ捥ぐ鈴の音はいつまで待っても聴こえてこない

 


夜更けに心の花園のすずらんを捥ぐ時の気持ちってどんなだろうか。鈴の音は救い?それとも福音?赦しの声だろうか。せめて眠りに落ちる刹那に鈴の音がなりますように。

 


・明日の目に何かが映るのだとしたらやわな刀の一振りがいい

 


何もかもが穏やかでありつつも寂寞があって、虚しい夜がある。どうせなら明日やはらかな一振りであんなことやこんなことを葬ってはくれないか、と。静かな諦念を感じる。

 


・のびをする、わたしの声に心根に、天の高さはまだまだと笑む

 


優しくて大きな『天』の眼差しを見ることが出来る、ねごと短歌屈指の歌だ。軽やかなリズムの中に、弾む喜びとともに、背筋を伸ばさしてくれるような天の眼差しが降り注ぐ、『まだまだ』なのだ、でも、必ずいつか『そこに』行けるように。

 

 

 

・尊さとやわさと奥の悲しみを願う心はどれもほんもの

 


全てが縒れて、全てが集まって、崇高なものも、猥雑なものも、あらゆるものが夜の浜辺に打ち寄せられて、それを持て余しながら、やっぱり手を合わさずにはいられない。明日の自分が、ニセモノ、でいないために。

 


第一部了

 


第二部

【境界】より

境界、はざま。私とあなた、私と世界、自他を分けるあらゆるモノゴト。

世界への強烈な観察の眼差しは内面の深掘りをもたらし、沸き立つ言葉の叫び。

軽やかなリズムと、時として印象的な単語が織りなす彼女の歌は、一編の小説や一枚の絵画をイメージさせる。

 


・にんげんを営んでいるメモ帳に足は片方ずつ出すとある

 


周囲の人間が、生身の人間なのか日々をひたすら記録して何かに動かされるロボットなのか分からなくなる時がある。言われたとおりに足を片方ずつ出せば、確実に歩ける、面白い人生かは、分からない。

 


・新緑のあんなに緑で叫んでていのちがすぐに尽きちゃいそうだ

 


初夏の新緑には、命の叫びが溢れている。降り注ぐ陽光を伴奏に、萌えゆく命は緑色の声のない合唱を続ける。まぶしげに目を細める姿が眼に浮かぶ、声なき声に耳を傾ける生命への深い賛歌。

 


・伝いゆくあいだはぼくで太ももに落ちたならぼく  一瞬、泪

 


泪には色々なものが含まれている、過去現在未来、喜び悲しみ怒り、つまりその人の全て。その泪を離したくない、これが私なんだという叫び、それでも泪は溢れて、自分を離れてただの水滴になる哀しみ。

 


・団栗が転がりかえる午後三時  けらけらころころひとりたったっ

 


優しい歌だ。すごく。団栗は午後三時にどこかに帰るのだ、後半の怒涛のオノマトペがこの歌を完全なものにしている。解放と喜び、無垢なる楽しげの詰め合わせ。午後の日盛りにサンルームでそっと開く絵本のような歌。

 


・ぼくもまた渚と思えばデスクにもシーグラスなど遺してみよう

 


自分の痕跡を残したい、そんな心を持たない人はそんなに居ない。渚はあらゆるものが打ち寄せる場所、どうにもならない日々が打ち寄せて渚は汚れるのかもしれない。

それでも、ガリガリのガラス片じゃなくて優しくてまぁるいシーグラスを遺して逝きたい人。胸が締め付けられる。

 


・庭先のポプラの姉妹がざわめいて誰かのいのちの終わりの報せ

 


絵画的な歌だ。ポプラは孤独で峻険な樹にも見える、それがふたつ、きっと付かず離れず立っていて、不穏な風を含んでさざめいているのだろう。良い風ばかりが吹くわけではない、わるい報せをまるで魔女の嘲笑のようにポプラの姉妹は奏でている。

 


・あい、う、えお  出るし聞こえるだのになぜ昨日沈んだ月がまだいる

 


悪夢の後だろうか、いや、ずっと悲しい夢の中に居たのだろうか。声は出る、少しずつ、確かめる。でも、目の前から、嘲笑の口のように上弦の月が消えない。大丈夫、月はもう去ったんだ。

 


・迎合と順応性は近似値で森にお箸を植えてみている

 


【境界】で一番好きな歌。

自然と不自然。自分と世界のはざまからガタピシとした不協和音が聞こえるような歌だ。順応性と迎合の違いを説明できる人がいったいどれくらいいるだろう。不自然な迎合を繰り返して、へつらいを続けるわたしは、もうあの自然の象徴である森に戻れないのか、木を植える代わりに育つことの無い『自然だった』箸を植える。

ささやかな抵抗のメタファー。

 


・加湿器はごぼりと鳴いた魂の抜けゆくときは痛むだろうか

 


物思いにふける時に、加湿器がごぼりと鳴く、そこで思考が途切れる。あの音には何か色んなことを飲み込まされているような悲痛な響きがあるように思える時がある。この荒んだ魂でさえ、身体を離れる時に、ごぼりと悲痛な音を立てるのだろうか。それは解放?

 


・右側と左側から音が刺すしぶしぶ耳をポッケにしまう

 


五感は外界と自分を繋ぐ入り口。特に耳は生命の原初から発達を繰り返した崇高なる器官。だからこそ、自分の意思とは関係なく、『音』は侵入を繰り返す。こんな耳無かったら、でなくても自由にポッケにしまえればどんなに楽か。

 


・ぼくの住む世界に神はいないけどどこかにいるなら声を聴かせて

・もし神がいたとしてそれはぼくじゃない  ぼくじゃないならやっぱりいない

 


この歌は、連作の最初と最後から二番目に置かれた歌だ。『自分』の世界に神はいない。

でもどこかに密やかに神がいるんじゃないか?といぶかしむ、そこから出発して長いこと境界を旅して、作者は外の世界の借り物の神を否定したんだろうか。救いは自分の中にしか無いんだと、気づけたのだろうか。

旅は求めるものを見つけられる時ばかりじゃない。大いなる否定や『見つけられなかった』ことこそに意味がある時がある。

だからこのふたつは破壊と再生の尊い歌だ。

 


・幸せを幸せと云うしあわせとくちをたっぷり混ぜあわせつつ

 


鼓舞の歌に思えた。幸せを人は忘れがちだ。青い鳥じゃないけれど、幸福や美は本当にそばにある、どこにもない。ここじゃないどこかにない。

ささやかな日常を抱きしめる、ゆっくりと抱きしめる、そう在れるように。

そのたびに唱える『しあわせ』は明日自分らしくあるための力強いマントラなのだ。

 


第二部了

 


【追伸】

・ヨーグルト、パクチー、クミン、ココナッツミルク、ハバネロ、青唐辛子

・塩、トマト、タマネギ、シメジ、ナンプラー、鶏モモ、ピーマン、ジャスミン

 


はい、これは完全にカレーのレシピ。

いつかこのレシピで作ったカレーを御馳走してくださいね。

 


追伸  了

 


ここまで、読んでくれた皆様。

本当にありがとうございました。わたしの駄文に付き合わせてしまってごめなさい。

そして、きいろさん。

これからも素晴らしい歌を、自分の心のままに詠んでくださるように願ってます。

 


全ての短歌愛好者に、感謝を。