総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

ぶすいなるままに

まずは、この歌をお読みください。

 

「武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」

※武士(もののふ

 

これは源実朝が詠んだ歌だ。

シンプルな実景を詠みながら、詠み人のエネルギーが選び抜かれた語彙をもって具現化されて少ない情報量の中に雄渾なる歌意が内包されている。

正岡子規は『歌詠みに与ふる書』でこの歌を激賞していた。

どだい、私の歌は歌詠みに与ふる書からスタートしているので、私自身の歌の目指すところもここにある、と言って良かった。

良かった、のだ。

もうそれは過去形になりつつある。

 

ずっと『ひとり』で歌を詠んできた私にとってその歌人との出会いは峻烈とさえ言えた。

言葉は無限でありつつ、有限の可能性を持っている。(言葉を趣味とするものとして言葉の可能性を有限とすることは悲しくはあるが事実は事実。)

特に三十一文字という限られた短歌という場においては情報量の取捨選択は死活問題だ。

それをしない(本人はできないと言うけれど)、まっすぐにしない人に出逢ったのは初めてであり、(私自身が他者の歌にそこまで向き合ってこなかったのやもしれず)そこから自分自身の短歌への道が再び始まったような気もするのである。(本人に怒られるかもしれないけど知ったことじゃないのだ)

ちなみに、その人の歌を読むときはググりにググる(笑)

 

前置きが長くなった。

今日は、『その歌人』その人である、深水きいろ@kirofukami さんの連作の解説への感想、という

チャーハンの上に白メシ乗っけるみたいな無粋なことをしようと思う。

 

最後に深水さんの自作短歌解説のリンクを載せるので、ぜひそちらを読んで欲しい。(というか、読まないと分かりません(笑)各歌の解説に私が唸るだけというすごい記事です、これは)

そして、この記事自体は私の私見でしかない。

創作物は作者の手を離れた時に、半分以上は受け手のもの、というのが私の持論なのであるし、そうじゃなくっちゃ、生み出してシェアする喜びなんてそこにありゃしないのだ。

 

それでは、どうぞ

 

北行きのみちを一本西よりにたぶん貴方は半分おそい

 

(解説を読んで)

なっるほど…なるほど。

こんなに甘酸っぱい歌とは思わなんだ。

彼女の歌はどれもこれも、朝もやの中で凪いでいる澄んだ泉のイメージを私に与える。選ばれる語彙のチカラに比して想いは深く深く沈んだところで静かに鳴っていてそれに耳を傾けるのが楽しみなんだけどそんな歌。

 

・已むをえず流したけれど喉もとで泡はたまげてすべつたみたい

 

(解説を読んで)

これは、わかる。すっと入ってくる。

お酒って『飲むのは』すごく楽しい、でも『飲まされる』のは、つらい。

自分に嘘をつくと代償を払うことになるね。喉と泡がたまげたくらいでよかったよ。

 

・しづやかにとぢる扉の一瞬に春は誰かと笑つてゐたの

 

(解説を読んで)

静かに閉じたんだね。自分の手で静かに閉じたんだね。

夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来るよ。そしたらそっと静かに開けてね。

わかんない、いきなり来るかも。

 

・遠くから呼ばれたこゑにプリーツのないお喋りは終はらせました

 

(解説を読んで)

涙が止まりません、千葉駅のカフェのほかのお客さんごめんね。

涙腺がよわーくなっててごめんなさい。こんなに青春の一場面を美しい詩として補完できるってなんなのかな、才能なのかな。

さみしさ、やわらかさ、あきらめ、プリーツは激動のメタファーでした。プリーツなんてなくってもいいのにね、たくさんプリーツばっかりの人生をみんな生きてるね。

 

・永い日を乗るだけ乗せてタルトタタンになつた肩だけ掴んで帰る

 

(解説を読んで)

これ、俺、(もう俺でいいや)解説なしで一発合格?した歌だった。

タルトタタンの持つ重なり合う、ふりつもる『疲労』の言葉のチカラ、それでも甘くて優しいお菓子にしちゃった作者のおだやかな眼差し、好きな歌だ。

 

・たんたたんかろやかなツーステツプでたんたたんたんひとりたたん

 

(解説を読んで)

『ひとり』あー、ひとりで踊ることは美しい。照明も当たらないかもしれず、拍手もないかもしれない。

でもそれで良い。それが良い。決然とした決意を秘めながら、軽いオノマトペがそれを悲壮なものから遠ざける。

こころねの在り方、が透ける歌。

 

・三百角タイルのあたらしいばかり欠かさず踏んで平等だつて

 

(解説を読んで)

鳥肌の立つ解説だな。やべーな。

厳しい歌。戒めの歌。赦しの歌。

平等とは、なんでしょうか。それは俺にとっては空だ。

下に広がる命たちに、ひとしく雨を与えて、陽を与えて、でも何も言葉を持たない。

当たり前のことにそこには淘汰される命もあるけれど、それにも言葉をかけない。ただ、そそぐ、愛を。

作為をもたない。

この歌は作為まみれの人の頬を打つ、歌。

 

・くだりなら街もたんまりほころんで忘れちゃつてもカラカラ云ふね

 

(解説を読んで)

『感覚』だけ、を鮮明に覚えていることがある。細部は忘れてしまっても体験に紐付けされた、思い出が鳴っている、いつまでも、いつまでも。

からからと、胸のどこかで。

またいつか、いつでも感覚に会える。

おかえりなさい。

 

・庭のある街をわづかに早抜ける 母さん、わたしコロツケがいい

 

(解説を読んで)

何もいらなかったんです。俺も、なにもいらなかった。ただ笑ってて欲しかったんです、母親に。

比べることなんてひとっつもないのに、あるはずないのに。

ないものばっかり数えてたんです。

苦しかったろうな、俺も、母親も。

 


母さん、俺はハンバーグがいいな、にんじんのグラッセつけてね。

 

・濃藍のそらに満ちてゆく(あ、けふ)さよならプリンセス・セレニテイ

 

(解説を読んで)

この命を終えて、この命をそっと還す場所がある。

俺という意識はほどけても、還る場所があるのだな、と漠然と考えていたので、ああなるほどと、思った。

それを美しい言葉で彩れる彼女はやっぱり歌人なんでしょう。

憩える日は必ず来るみたいなので、その日まで、プリンセスが挨拶してくれるまで、こちらからは行けないのかな、とも思うけど。

片道切符をしっかり握りしめてるのは勇気の源になったりして、ね。

 

『引き汐のとき』解説

https://note.mu/kirofukami/n/n58a17513cecf
(追伸)

読んでくださった方、ありがとうございました。

本当に自分のためだけに文字を並べてしまいましたー!

 


歌と向き合うという貴重な時間を解説を書くということを通して、俺に与えてくれた、深水さんにも、ありがとうを。

 


そして、

全ての短歌愛好者に大好きを捧げます。