総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

いかり ぱんでみっく

「あー、いけないんだー。先生に言っちゃおー。」

もはや名前も…ましてや彼が犯した罪状すらも覚えていないが(申し訳ない限りである)かつて幼少期に、同級生が他の同級生にそう大声で叫ばれていたのを思い出した。

 

そうなると、先生が呼ばれる。

他の生徒たちも集まる、後はお決まりのように彼への吊るし上げが始まる。

たしかに彼は問題の目立つ子ではあったが、今頭をひねってもその問題とやらを思い出せない。

しかし、当時のクラスや、稚拙ながらも子供たちの間に作られたルールをよく逸脱する子ではあったのだろう。

子ども達は無い知恵を絞って彼がいかに共同体(クラスのことだが)へのマナー違反を犯し、それがいかに共同体の平和をおびやかすかをことさらに言い募った。

 

これを公開処刑と言わずしてなんと言うのだろう。

まるで自分が聖者になったかのように、「悪者」である人間に対して無慈悲な裁きを下す。

こちらに正義があるのだから、何ら良心も痛むことはない。

 

当たり前だ、ルールを破ったのは彼なのだから。

もちろん、私も彼に対して冷たい断罪をした側であった。

 

我々はその時、「義憤」(公共性のある怒り)というものを共有していたのだろうか。

共同体への不利益や背信行為に対する怒りを共有していたのだろうか。

 

もちろんそれもあったろう。

我々が社会的動物であるからには属する社会の結束を脅かす存在は何であっても排斥すべきだ、というのはより原始的な防衛機能だと言える。

 

しかし、怒りというものが個人に与える快楽作用というのが麻薬に(あくまで比喩である)匹敵するものであるとするならば、我々は怒る理由を探しては、それに対して裁くことを期待してはいないか。

なるべく良心が痛まないで合法的に相手の人格を傷つける機会をうかがう暗い指向性が我々にありはしないか。

 

不倫報道、タックル問題、公文書偽造、男尊女卑問題…。

 

ここ数ヶ月でも世論は様々な「義憤」に沸きに沸いているような印象を受ける。

たしかに上記のそれらや、さらにそれ以上の種々の出来事は社会的に禍根を残す大問題であろうし、それについて問題意識を常に持ち続けることは大切だ。

しかし、蔓延する怒りに感染し、果ては自分がその感染拡大の一助となっているのであればそれは忌むべき行為ではないだろうか。

人は大なり小なり日常において不満を抱えるものであり、それらの鬱積した怒りが、巷に蔓延する「義憤」と化学反応を起こして公的な怒りへと変質する。

つまり表層的に同じ「義憤」を共有しているように見えて、個々の人間の内側には全くそれとは異質の各々の「私憤」を抱えている。

 

自己の私憤の発散のために、義憤を利用することは厳に慎まなくてはならない。

義憤とは作られたものであることが多い、声高に叫ばれる出来事が、一次情報かどうかも、ましてやその情報の正誤や明確な数値化できるものなのかも怪しいなかで、噂の様な形で我々の怒りをくすぐるものが多いのだ。

特にSNSでの情報の拡散は容易である。

人は安易であるものに加担しやすく、その情報の精査をする人は極めて稀である。

これでは何の問題解決にもなりはしない。

ただ「義憤に偽装された私憤」を少しなりとも晴らして自己満足しているだけである。

 

冒頭の彼はひっそりと転校していった。

原因が何であったかは今では確かめようもないが。(もちろん家庭の事情が原因だったのだろう)

しかし引越しの理由を色々想像してしまうと、彼にも彼の考えや事情がありそれに傾ける耳を持てなかった、当時の自分の愚かさと弱さに暗い気持ちにならざるを得ない。

 

 

自分には常に「限りある人生の時間の中で、他人の怒りに付き合う時間が自分にあるのか」と問い続けることで戒めとしていきたい。