総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

教養と立場

司馬遼太郎の幕末に関する小説2冊を続けざまに読んだ。

 

① 最後の将軍

②酔って候 の2冊である。

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1冊目は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜を主人公にした作品であり、2冊目は幕末に存在した四人の藩主に関する物語である。

 

『最後の将軍』の主人公、徳川慶喜は世に英邁の誉れ高く幕末の動乱期にあって天下の期待を一身に背負って徳川将軍となったが、二年余りでその政権を朝廷に返上して、『最後の将軍』となった。

『酔って候』の登場人物である、山内容堂島津久光伊達宗城鍋島閑叟の四人は幕末の世情混迷なる時に各藩の藩主として争乱の時代をそれぞれ生き切った。

この五人はいずれも、名門の子息として世に生まれ当代有数の学識を誇った。

富国強兵を推し進め、産業を興し、藩士を教育し、新兵器を開発し、自ら政治と向き合った。

つまり、名君である。

確かに彼らは声望家でありその名声は世を蓋った。

しかし、惜しむらくは単に声望家で終始したことであった。

並外れた時勢感覚、危機意識、教養を持ってしても、彼らは『何事も』為さなかった。(何事、とは維新期における決定的な行動のことを指す。)

幕府開闢以来の風土が、彼らをして自縄自縛の状態をもたらし、二百数十年の長きに培われてきた教養が名君を阻んだ。

 

彼らは何者かになろうとした、しかしそれはせいぜいが国政にくちばしを入れるくらいの結果しかもたらさなかった。(くちばしと言えば、親鳥の様に手ずから教育した臣下達の中からこそ『何者か』が現れたのは歴史の皮肉と言う他は無い。)

慶喜にしろ、容堂にしろ賢侯に足りなかったのは

生々しい実行力

それに足る覚悟

実行を支える確たる実力

教養に負けないふてぶてしさ

 

この四つであったと思う。(時勢の勢い、などと無粋な事は言ってはいけない。)

 

つまり、『人いかに生くべきか』などという教養はあくまで個人の行動の中に見出すべき代物であり

他者を率い、敵を欺き、目的を達成するということならば、他者の毀誉褒貶に屈しない目標達成への図々しさが不可欠である。

彼らにとっては天下国家を論ずることは、本人がどう感じていたとしても、貧しい身から奮い立ち、砂利を食い泥水を飲むようにして東奔西走していた真の革命家たちからすれば貴族のお遊びにしか見えなかったのであろう。

 

江戸の時代が去り、明治の世が来た。

彼ら『道楽者』の藩主もそうではない藩主も、つまり『道楽者』達が時勢に疎い愚か者よと断じた凡なる藩主らも等しく、過去の栄誉と成り果てた。

 

帝国主義の嵐が吹き荒れ、西洋列強の軍艦が大海を闊歩する時代には政治を玩具にできる余裕などは無かったのだろう。

 

ここから近代が始まる。

 

教養も知識も、生の胆力と結合しなければ本棚に並んだ本と等しい価値しか無い。

かと言って、権能と実力を誇っても見識が無ければ暴慢の徒となるであろう。

『何者か』となるには、実力と教養の均衡が必要なのだ。

 

最後の将軍

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酔って候

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