総州書房雑録

読んだ本の感想、考えたことを書いて行きます。

トマト

足元に、トマトが転がっている。

私は日課の散歩道を歩いていた。
長い坂道の途中の…閑静な住宅街であるから、どこぞの家庭菜園から転がってきてしまったものらしい。

 

私はその誰の口にも供されない運命の熟れた野菜を横目に坂を上り続けた。

ついでに、こんなことでも無ければトマトのことなど考えないから散歩のつれづれに考えることにした。

 

トマトといえば、今やイタリア料理の代名詞と言っても過言ではない。

しかし、このどこか太陽の滴を思わせる野菜が、実は南アメリカ大陸からもたらされたものだというのはあまり知られていない。(最も知ったところでトマトの味が美味くなるわけもないのだが。)

 

1519年の南米に、エルナン・コルテスという征服者が上陸して、トマトの種を持ち帰ったたらしい。

全く、大航海時代という時代のヨーロッパ人ほど多人種を脅かし、かつその財貨をむしりとった民族もいなかった。

そんな人々にとっては「たかが乾燥に強い野菜」という特長しかなかったトマトなど、行き掛けの駄賃くらいの価値しかなかっただろう。

 

ジャガイモやトウモロコシといった現代の我々になじみ深い食物もこの時にヨーロッパ人が得た収穫物だった。

原住民からすると迷惑至極このうえない。
海の彼方からやってきた肌の白い征服者たちは、鉄で武装して物理的な危害を原住民に多量に与えた。
まさに災厄そのものだったように思う。

その災厄が今もそこかしこに傷跡になって残ってしまってもいる。

さらに迷惑なことに彼らは、新大陸の人々がいっさい耐性を持たないウィルスや病原菌までもたらした。

南米に君臨した、アステカとインカという文明も、どちらかと言えば、白人が撃ち込んだ鉛弾よりも、持ち込まれたさまざまな伝染病によってこの世から消滅した。

しかしながら、交流(それは必ずしも平和的なものを意味しないが)を経て、ヨーロッパにも新大陸独自の病は確実に「交換」された。

話しは飛ぶようだが、日本の戦国時代に結城秀康という人物がいた。
彼は徳川家康の次男として生を受けた。
まさに将来を嘱望された貴公子、のはずであった。

家康という人は多難の人で(でなくば天下などとりようもないが)長子であり、徳川軍閥を継ぐべき長子・信康を亡くしていた。
なればこそ、次男である結城秀康にその正統はまわるはずであったのだが、時代はそれを許してはくれなかった。

 

当時、家康には強大な対峙者としての豊臣秀吉がいた。
秀吉は家康に服属の証しとしての「人質」を求め、幼い秀康(幼名は於義伊)は大坂へ赴かざるを得なかった。

(最も、秀康よりも生母の格が上に当たる三男の秀忠が当初から嫡男であったという説もある。)

 

秀康は表面上は秀吉の養子となり、関東の名族「結城」家の名跡を継いだ。
徳川宗家との距離は限りなく遠くなったと言って、いい。

 

秀康は将としての器量に優れ、その威風は父、家康すらも一目置いていたという。

かの関ヶ原合戦の後は越前に68万石という大封を受けてもいる。
(あるいは家督を継げない秀康を慰撫するための破格の処遇であったかどうか。)

 

しかし、彼の寿命は短かった。34歳の若さでこの世を去った。

越前中納言と呼ばれ、ゆくゆく天下の仕置きに重きを為す予定の若者の命を奪った病。

 

それは、どうやら梅毒であったらしい。

 

梅毒は新大陸からヨーロッパ人が持ち帰ったものだったと言われている。


征服の財貨の副産物としてはいささか釣り合いの取れない駄賃であったかもしれない。

20世紀にペニシリン抗生物質)が発見されるまで、世界中で多数の人の命を奪った。

 

日本でこの病気を記録した最古の例が1512年。


コロンブスが初めて新大陸の地を踏んだのが1492年。


じつに20年という速さで、梅毒はユーラシア大陸を横断して極東の島国に到達した。

当時の移動交通手段を考えると驚異的な速度だろう。

 

故郷を遠く離れた場所に連れてこられ、そこで必死に根を張ろうとした人生の幕引きとしてあまりに、もの悲しく。

 

「こんなはずではなかった」と言う秀康の淡い恨みぶしを、原産地を遠く離れて極東で栽培され、熟れて朽ち行くトマトに重ねてみたりした。